52 ラグジュアリー

ラジオ・エルメスに出ることになりまして、今日、収録していると思います。さて、そのテーマが「ラグジュアリー」です。エルメスのチーフデザイナー、ヴェロニク・ニシャニアンのABC-bookという企画らしく、いろんな人がエルメスを擦りながら「A」から「Z」の何かを語るという。そして、よりによって僕は「L」で「luxury」だそうです。(多分、企画者の伊藤総研さんのイケズ 笑)

今日は放送台本で書かれていることをかきだしながら、整理してみたいと思います。(これを書いているのは9/21土曜。こうして書き出して考えるのが好きなので・・・・・)
まず「ナガオカさんはラグジュアリーという言葉をどう捉えているのでしょうか」です。辞書には「ぜいたくなさま。豪華なさま。また、ぜいたく品。高級品」とありました。笑 プレミアムってのも気になりますね。

そもそも日本って「ラグジュアリー」なものや作り手などの物語ってものすごくあると思います。僕はこの辞書の訳を見て、やっぱり日本人って、そもそもラグジュアリーのことを勘違いしているし、その作り方すら「得意ではない」人種なんだなぁと思いました。

一方で「プレミアム」は多分、日本人は大好きだし、その造り方も好き。そもそも「ラグジュアリー」と「プレミアム」についても、整理が必要かもしれませんね。「プレミアム」はブランドの作り方の話ですね。マーケティングとかちゃんとやって、競合にどう差別化していく中でのポジションのことでしょうね。ラグジュアリーって、そういうの一切吹っ飛ばしてますよね。顧客や競合のことなど考えず、自分たちの世界観、デザイナーの世界観を訴える。たった一つの・・・・みたいなことでしょう。だから、圧倒的なものがないとそう呼ばれない。

日本人って世界的に見ても目が肥えている人種だと思います。だから得意だとは思うのですが、そもそもマスブランド作りが好きだし得意だから、「ラグジュアリー」の作り方がわからないのと、きっと、出来ないんじゃないかと思います。諸外国の「ラグジュアリーブランド」の作り方を真似ても、会社の体質が変わらないと、作り出せないと。レクサスですら実はラグジュアリーブランドになっていない。変な表現で正しいか若干自信がありませんが、レクサスって、トヨタのプレミアムブランドなんだと思います。圧倒的なものがあるはずなのに、うまく見せられない。と、いうか、やっぱり日本人ってその育ちから、ラグジュアリーって難しいと思います。

ロングライフデザインって、ちょっとラグジュアリーをかすってますね。僕も講演とかの時、よく「独創的」とか「競争しない」みたいなキーワードをこうしたロングライフデザインにかぶせて話したりします。プレミアム商品は、マーケティングやポジショニングによるので、常に前後左右にわかりやすい比較対象がある。激安ブランドが現れたら、バランスを崩すでしょうし、そこからラグジュアリーを思うと、わかりやすい品質改善なんかの努力を惜しまず、その代わり、世界観を徹底的に作り込み、おまけに価格をうんと高くする・・・・・。
あ、1問目でこんなに書いてしまった。僕はラグジュアリーとは圧倒的な価値。そして、その見せ方だと思うんです。だから「ぜいたく品」なんて訳されることから違いますね。

よく価格の話になりがちで、贅沢品とか言われちゃうのですが、価格の安いラグジュアリーってあると思います。でも、日本人はきっと「それはないよ」と言いそうですよね。「圧倒的な世界観」のある価格の安いものはあるのに、ラグジュアリーとはそもそも「豪華なさま」とか言われる。もっと価格なんかに囚われず、その本質を見れば、「これって、安いけれど、ラグジュアリーかもしれないな」というものは、結構あると思います。例えば、京都の開化堂はラグジュアリーブランドだと思います。ちょっと価格は高め。でも、買えなくはない。そして、徹底的な作りこみと経年変化を楽しめる提案・・・・。そんな何十万もしないです。
そういえば、前にも書きましたが、フェラーリとレクサスの違いは、フェラーリを作っているのは「職人」です。エルメスも結局は「革細工の伝統工芸」ブランドです。日本にも「伝統工芸」はたくさんある。しかし、それを「ラグジュアリーブランド」にまで持っていけない。レクサスはマスに向けて「ラグジュアリー」層が好みそうな表現広告などをしていますが、フェラーリは広告などしない(ほぼ)。そして、職人工房としての工場をPRに使う。その手緩さが、レクサスがラグジュアリーになれないところだと思うんです。あ、ちょっとこの辺りで今日はやめときます。

やっぱり、続けます。笑

もう、今回は「ラグジュアリーとは何か」で行きます。

ヴェロニク・ニシャニアンの問いを正確に書き写すと「ラグジュアリーという言葉からは何も定義されないし、大きな意味もない」だそうです。これについてナガオカさん、どう思いますか?というのが、番組の本番です。

これについては、「圧倒的」だからだと思います。類似するものがない。定義するのは「プレミアム」の話で、ラグジュアリーは圧倒的すぎて、比較できないということなのではと思う。「大きな意味もない」とは、やはり「圧倒的」すぎるということの表現のように思います。
ラグジュアリーとされるブランドは、そもそもラグジュアリーを求めていたわけでも、そうしたターゲットに向けて意識していったわけでもなく、本当に自分たちの追求でしかなかったと思うのです。そういうことから「意味とかじゃねーよ」的なことだと思います。「超越」している。だから、細かいこと、たとえば、彼らHERMESのショーウィンドゥをデザインしている人に会ったことがあります。中国の奥地で伝統的な造形を作っている人たちで、そういう人を探しだし、彼らに仕事の場を与え、彼らの気の遠くなるような手仕事を認めている。でも、そうした情報は一切、出していないし、多分、出す気もない。そこに広報的なコントロールがあるか、ないかは知らない。そうした俗なことはどうでもよくて、もっと本質的なモノづくりについて話そうよ、みたいな感覚なんだと思います。
京都の一舗堂茶舗さんは、「このパッケージのデザインはどなたですか」みたいな質問には一切答えません。そんなこと(情報)をブランドを作る要素にしたくないということだそうで、普通はそのデザイナーが世界的に有名なら、それは十分、PR価値があるものとなる。しかし、それをしない。このHERMESの姿勢、先のヴェロニク・ニシャニアンの「大きな意味もない」というコメントは、「どうでもいいよ、そんなこと」って感じなんだと思いました。

もう一つの質問は、こんなの頂いています「価値を失わず、人々に長く必要とされる”モノ”には、何が備わってるのでしょうか」

「見栄え重視な贅沢品ではない「ラグジュアリー」のその先にある価値・意識とは?」

最終的には「心」なんだと思います。民藝の時にもお話しましたが、形の美しいものや、「美しい」と感じられたりできる時って宗教が健やかだったからだと言われています。そして、現代は美しいものが作りづらい時代とも言っていました。
感動って只では出来ません。ある人が「感動するにもお金がかかる」と皮肉を言っていました。要するに、勉強しないと自分の感動センサーを動かせない。そのセンサーは良い自分の状態や社会の状態をベースに、自分で直接、美しいものを見まくる。お金と時間をかけて「自分の感動の前提」を構築していく。独自のセンサーを開発する。そうすることで初めて、人が感動しないような普通のことにも、感動できるようになる。

価値って、普通、誰かがつけたものですよね。松平不昧がつけたランクに沿って、「そうなんだ」と思いながら自分も感動の勉強をしていく。
ラグジュアリーをわかる人って、2種類いるでしょうね。一つは本当にたくさんのものを見て経験した結果、ものの見方や感動のセンサーが完成した本物同士(作る側、購入する側それぞれ)が、出会い、手に入れる本当の目を持った人たちの世界と、そんな人たちの影響で、そこに憧れや目標を持っている人。

後者って多分、品はないんでしょうね。だからわかりやすい方がいいし、わかりやすくないと「ラグジュアリー感」が感じられない。車なんてそうですよね。内装に本質を求めるよりも、わかりやすく「人と違う状態」にしたがる人ってそういう人でしょう。

ラグジュアリーって、純粋な世界だと思います。柳宗悦が言っていた「お金がなくても買え」という。民藝でいう「直感」じゃないでしょうか。ものと人の目との間に、混じり気のあるものを置かない。いくらだろうとか、家に入るかなぁとか・・・・。

物って、本物と偽物ってよく言われますが、本物はあると思いますが、本物を意識した物ってのがあるでしょうね。そして、普通のものがあって、偽物があって。

本物でも、「何をもって本物なのか」と思いますよね。ある雑誌が「本物を持とう」という特集を組んだとします。そこで「これは本物」と言われたら、人は本物だと思うでしょう。本物って定義がむずかしい。

でも、本物はある。それはいくつかのハードルを超えた人じゃないと語れない世界だと思います。僕なんか、全然わかりません。だから、そういう世界が苦手だけど、それでも「本物」を知りたくて、それを人の決めた基準ではなく「時間」の経過で表したかった。それが「ロングライフデザイン」です。「時間が証明しているいいもの」です。時間ですからね。誰がなんと言おうと、100年続いているモノづくりって、やっぱり凄いです。ラグジュアリーって、この時間も飲み込んでいると思います。

まとめ

まぁ、どうでもいいんですが(笑) 僕はプレミアムは作り出せても、ラグジュアリーは作れないと思います。ある意識で相当の条件が積み重なり起こる現象のようなものでしょう。晴天が人間では作り出せないような。そして、ラグジュアリー価値を感じられるという人も、急にはなれないでしょう。その真似事はいくらでも出来ますが。

日本にも相当真似の出来ない文化、モノづくりがあると思います。しかし、うちに秘める日本のスタイルと海外のラグジュアリービジネスは、やっぱり前提が違う。なので、日本式のラグジュアリーを追求していけば、日本だけのことを考えていくとあると思います。だから日本には、ラグジュアリーブランドは(作れ)ないです。笑

まとめた後に、d日本フィルメンバーとまたしても続きを。そこでも色々考えました。

ラグジュアリーとは、やはり「健やかさ」「欲のない」「健全な」「上質な」と言うのはありながら、少しだけ「ビジネス」の香りは漂わせています。

例えば、モーツァルトなどは宮廷音楽家であくまで宮廷からの依頼で作曲していましたが、ヴェートーベンはお抱えではない、曲を提供(捧げて)、見返りとしてのお金を頂くと言う、微妙なことをしています。これぞラグジュアリーなんじゃないかと思うのです。そこからこうも思いました。

納期を守るのは「プレミアム」、守らないのは「ラグジュアリー」笑

自慢の麺がなくなったら終了の蕎麦屋さんは、ちょっとラグジュアリー。自分のペースがあるからロングライフデザインでもいられる。

消費されない構造になっている、たとえば、絶対的な何かが下支えしているようなものは、ラグジュアリーの中にあるでしょうね。

色々考えていって、そもそも「言葉」に置き換えられるって、ラグジュアリーじゃないなぁと思いました。説明して分かってもらうことが、必要なくなれば、なくなるほど、ラグジュアリーなのでは、と。
そう言う世界に住んでいれば、いちいち説明など必要なくなります。そう言う共感の関係性がないと、ラグジュアリー状態にはならない。

ラグジュアリーとロングライフデザインって、共通点は多いと思います。