80: 民藝的デザイン展 その後

図録の関係から、今月いっぱいで候補を出し、ほぼ、原稿を書き上げなくてはならないというスケジュールで猛烈進行しています。若干、お断りされたり連絡がつかなかったりする方も出てきて、今現在、「愛媛」以外は揃いました。この展覧会は「民藝的」と言っているように、その理解度が試される、と言ったら上からですが、笑 僕を含め、「民藝」への再注目、そして、理解によって準備から進んでいます。

おそらく、企画者の僕の「民藝」への理解度は、松井健先生から見ると「60パーセント」くらいじゃないかと思っています。松井先生の考えである「民藝とは、運動を創設した柳宗悦の考えである」ということ。それを応用したり、まして、新しく解釈をするというのは、ちょっと違うという考えもある。僕は違います。60パーセントはそれを理解(完全には無理です)しながら、やはり、未来、少なくとも「今」を見たい。民藝の素晴らしい考え方を伝えたいということではなく、これからのものづくりの理想を考えたとき、それは「民藝運動」にあるものの考え方が一番、参考にしたほうがいい、と思っているわけです。

最初の方に戻りますが、関係するみんなの民藝への理解によって進む・・・・・というあたりです。僕がなんと言われようとも、「これはもしかしたら、民藝的なものの生まれ方をしたんじゃないか」という、存在のものを選び出します。民藝的な柳宗悦の言葉で言うと「直感」ということに近いかもしれません。色々調べて選定していません。なんとなく「気配」を感じてピックアップしています。僕はこれからのものづくりには「祈り、思い、願い」みたいなものは欠かせないと思っています。経済優先で、マスメディアに人工的な憧れを作らせて、身の丈に関係ないものを買わせる。売れるものを大量に安く短時間で作らせる。そんな時代は終わりつつある。人はものを欲しがらなくなるのではなく、本当に自分らしいものを、継続した関係のつながりの中で使う。一人一人の価値基準、生活スタイルと、作っている人が「繋がり合う」こと。メディアうけとか、話題性とか、関係なくなる。適正なスピードと環境で、その作っている人にも無理がなく、そして、作っている人は、買ってくれる人を知っているようなものの生まれ方。数字のために生産されるだけではなく、何か根源的な問題に取り組んだり、どうしても作ってあげたい人に届けたい思いがある。

企画書を書き、先方に郵送する。その人がこの考えを読み解き「まさに、これからに必要だ」と納得してもらわないと、「参加」とはならないわけで、断られた人は、こちらから追わないことにもしました。

ちょっと余談ですが、こういう視点でものを、特にパッケージなどのデザインを見ていくと、本当に一瞬で「経済優先のトレンド時代の」発想か、それとは違うか、がわかります。そして、パッケージデザイナーという仕事の重大さも、同じく感じます。作っているひとの環境、考えをデザインのプロとして代弁するように図案化する時の「主張」「表現」が、どこを向いているのか。大量に並べられたコンビニの冷蔵ケースの中の類似品の戦いに勝つためのようなデザインは、もういらないのです。時間をかけて選べるいま、これから。同じくらいの時間のゆったりさで、その図案を通じて中身に向かう時の存在感の消し方、空気のようなデザインが求められる。

現代を生きる私たちの身の回りにあるデザインの多くは、まだまだアメリカやヨーロッパのそれの名残があります。読めない英語のちらつかせた洋風なものや、派手なまるで雑貨のような中身と全く関係のないデザインなど・・・・・。

今日はここまでに。書き出すと止まらなくなります。笑 きっと、僕みたいな人間ですら、お茶を習ってみたいと思うそこに、何かはあります。僕は最先端にはいませんが、真ん中よりも少し前にはいるので、自分でもどうして急にフルートが吹きたくなるのか、一緒に考えて行きましょう。笑

「直感」で選んだものの一つ。佐賀県からは「バルーン」を。世界的に有名なフェスの開催地。高い山がなく、広い盆地が広がることなどで、気球にとって条件がいいそうです。そういう自然の導きとは言うと気持ち悪いかもですが、そう言うことが、現象を作っていくんですね。