77: か弱い見立て風プロダクト

中国茶が好きな友人から面白いものを見せてもらいました。ガラス製の板のような、これでお皿だと言うのです。もう一種類、違う作家のものを見せてもらいました。これは小皿に見えます。しかし、ふちの仕上げや装飾性がないことから、なんとなくか弱い感じがしました。その友人にとって、この「か弱さ」こそ、中国茶を楽しむ時間に欠かせないアイテムだと言うことのようです。それにしても最初の板のようなものは、もちろん羊羹を切って置いたりする同じく小皿として使えますが、ガラスの板をカットしただけのようにも見えて、これもこれで「か弱さ」を持っていました。驚いたのは、この板のような皿のようなものを作っているのが、富山の人気ガラス作家のピーター・アイビーさんのものだと言うのです。そして、これが5,000円以上することにも驚きました。

中国茶で使うものの中で、飛び抜けて自由度の高いものがいくつかあります。極論はなんでも使うことができれば利休の「見立て」と同じでなんでもいいわけですが、やはり、最終的に飲むための小さな器や、注ぐ片口のようなもの、急須のようなものは、お茶の味や色に関わるので、その素材や注ぐ機能性などが問われ、大体決まってきます。しかし、それ以外は存分にこの世にあるものから見立てていいのです。そこが面白いところです。そして、そこに登場するものに「か弱さ」という感覚はとても相性がいいと感じています。

ちょっと中国茶の話からそれますが、私たちは「もの」が持っている存在感で「時間」を作っていると言えます。雰囲気ですね。バカラの高級なカットグラスでウイスキーを飲むと、その時間の上質さが増すような気持ちになります。それと同じように、敷かれたテーブルクロスや飾ってある花などで、空間や過ごす時間の質が作られていく。その中国茶をご馳走してくれた友人といて、この感覚、この時間の作り方、こだわりの面白さをとても感じ、中国人の時間に対する質を求める考えに本当にうっとりしました。

有名ブランドのカップとソーサーで頂くコーヒーもいいのですが、何か自分とお客さんの関係の中に「見立てによるもてなし」を添える。そして、そのモノに対して「物語」をつけていく感じで「素材」を選ぶ。うーん、すごいなぁ。昔の日本人が好きそうな世界ですが、今の若い日本人にはこの感性があるのだろうか。人にうまく説明のできないものを、重要なお茶の時間に使う見立てのセンス。素敵です。