2010年3月17日 14:02更新
考えると、ずっと画面に向っている。ブック型のパソコンと、モバイル。ま、つまり、マックブックとアイフォンだ。もうじき、もうひとつの画面がやってくる。
僕はテレビをほとんど見ない。雑誌の取材を受けても見ないと言うのも面倒だから、ないと言っている。実際は川崎さんのデザインしたEIZOと、Sonyの昔のモノラルのテレビが2台。一台はハードディスクレコーダーに録画したものを見るために台所にある。しかし、家に帰ってもブックをあけ、アイフォンの画面を覗く。
ある日、冷静に考えて例えば、この「一日じゅう画面を見ている状態」が「悪い」と過程して考えたことがある。そして、「一体、何をしているのか」とも考えた。
仕事で使うということは、ひとつ、仕方ない。ここにも「画面を覗かなくても仕事はできる」という世界はある。ま、それは置いておき、問題はそれ以外のプライベートで画面を覗くときって、なんだろうということ。そんなこと、考えてもみなかったけれど、確実に画面をのぞき込む時間は増えている。
マトリックス的な世界観で言えば、もうじき、このモニターすら頭の中にすっぽりと入ってしまうのだろう。それは全然、架空のありえない話しではない。記憶のチップを取り外しすることも現実に向っているだろうし、人とのコミュニケーションをほんらい人に備わった、例えば、手足や言葉、目や耳がなくてもできる状態になるだろう。
つまり、人は繋がってしまう。
僕らが日々、画面をのぞき込むという行為は、それを目指しているかなり初期段階ではないかというのが、僕の結論。つまり、だんだんエスカレートしていき、24時間、様々なものと人、人と人が繋がってしまうことが、近未来のゴールだと見える。
ツイッターは「その欲求を満たした」ことであり、「人のつぶやきまで、人と繋がった」ことを意味する。
メールで人に用件を伝え、気持ちを伝える。ツイッターで揺れ動く恋の想いを相手にささやき、メールでプロポーズして、画面に花束を贈る。
その美しい画素数誇る花束は、もちろん写真だし、恋の言葉がささやかれるのは、耳元ではなくなっていく。
アメリカの学校受験ではパソコンの持ち込みはあたりまえになりつつあるようです。もはや、そういうものを駆使して「情報にたどり着く」という才能の方が、人間本来がもつものを越えてしまった。
画面を覗き込むということ。それは、人間本来の大切なことをダメにしているともいえる。
いつだったか、ツイッターに「こういうのが人生の時間を無駄にしている」とつぶやいたら、「そういう考えは古い」とつぶやかれた。ま、つぶやきだから腹もたたなかったけれど、価値基準のトップに「コミュニケーション能力」があるのはいいけれど、どういう手段でもいいかというと、それは考えなければならない。
やがて、自分がいなくなる。自分なんて必要なくなる。他人になれるし、自分の中にそれはなくてもよくなる。知識も記憶も。人にあればよくなる。他人のものでも契約が成立すれば自分のものだ。努力よりも、その情報にいかにたどり着けるか。それが重要だ。なんて時代に向っていくために、僕らは日々、画面を覗き込んでいる。自分が凡人であると感じるときが一番辛い。そういう感情すら、どうでもよくなる。
世の中がものすごい勢いでその方向に向かっている。人はその流れを変えられない。それくらいの大きな力が「人間本来のあるべき姿」をかえている。(こういう話しをすると、宗教じみていきますね。でも、宗教とはそういうことに近いから、それもいつか考えてみるとして・・・・)
シンプルに生きたい。