2010年6月10日 20:47更新
静岡県の伊豆にある学校から、大量のUSEDを引き取りに行ってきた。静岡店のスタッフたちと協力し、東京、大阪、札幌、静岡、長野、鹿児島、それぞれの店舗へと、魅力的なUSEDをコンテナに積み込んできた。各店には、近々入荷されるので、各店のUSEDファンの皆様は、是非ご期待ください。
そんな中、東京店のUSEDバイヤーである斎藤と話をしていて、ふと思う。リサイクルショップを回っているときと、今回のような廃校になった校舎から引き取りをする時とでは、同じ「引き取り」という行為の中でも、何か同じことをしている気にはなれない自分たちがいる、ということだ。今日は何か、それを明確に感じた。
リサイクルショップやお客様からのお問い合わせの中から、バイヤーがセレクトする瞬間は、いつもいいデザインを救出するぞ、という思いで行う。結果、これでまたよいデザインを長く使ってもらえるきっかけを生み出したな、と満足感がある。当然、残った物は、リサイクルショップでそのまま継続して売られるか、お客様だとそのまま使い続けるか、となっていく。
しかし、今回のように大量のUSEDを廃棄前で向き合ったときには、自分たちがセレクトした瞬間、選ばれなかった物たちが、一瞬にしてゴゴゴゴーっと、ゴミに変わっていくことになるのだ。それを目の当たりにすると、まるで、自分たちがこれはゴミだと烙印を押したような罪悪感にも似た気持ちが込み上げてくる。自分たちが残すべきだという物を選びとってつもりはある。それはそれでひとつ。しかし、デザインはともかく、まだまだ使える物でもあるという現実を、自分たちがデザイン活動として引き取るわけにはいかないが故に、どう捉えてよいものか、と悩む。
素材としてリサイクルする、ということはもちろんそのひとつだ。そして、それ以外にも、何かデザインの力で、できることはないものだろうか。
相馬 夕輝